哲学・思想

2016年12月 8日

私の哲学入門

 普段生活をしていて、ふと、「なぜ」あるいは「これは何だろう」と思うことはないだろうか。

 友人と話していて、なぜここで笑うのか、どうしてそういう態度を取るのか。誰しもそんな疑問を感じることがあるだろう。それが哲学になる。そう、哲学は日常生活の床下に潜んでいる。それは広くて、深い。難しい専門用語を並び立てる哲学も確かにある。だが、哲学はそれに限ったことではない。それは日常に寄り添っている。むしろ、専門用語を使う哲学も元々は日常経験から始まる。その経験を土台にしないと、その哲学に説得力は出ない。「迫るもの」や面白さに欠ける。哲学も学問である以上、論理が通らなければならない。全くの他人にも理解できるように言葉を置かなくてはならない。
 迫力のある哲学論文は、自分の体験を踏まえた上で抽象化されている。それが自分だから書ける独創的な論文になると思う。だから、他人が読んでも迫力が伝わる。論文だから論理の世界だが、それでも優れた論文は読む者の心を打つ。理性と感覚がバランス良く溶け合った結晶。読み手によって、共感もあれば、反発もある。一見理解し難いが、なんとか理解したいと好奇心をかき立てられるものもある。「分からないけど、分かりたい」。そう思わせたら、上出来だろう。

 哲学によくあることの一つに「似て非なるもの」の違いがある。
 例えば「こだわり」と「吟味」。これらは同じような意味だと思うかもしれない。だが、こだわりは、下らないことに拘ること。吟味は、よく練られた意味で使われる。似ているようで、全くの別物。
 これは真理にそのような特徴が一つにはあるためと思われる。
 真理は多面体。それは様々な側面を見せる。これも本当なら、あれも本当。だが、厳として受け付けないものもある。それは正しくないこと。間違ったことは真理とは言えない。ところが、真理と間違いは表面上よく似ている。だから、しっかりと見極めなければならない。正しい行いをすると、面白いように事が上手く運ぶ。一方、間違った行いをすると、事が思うようにはかどらず、苦しむ。間違うなとは言わない。誰でも間違うことがあるからだ。なので、いかにその間違いに氣づくかにかかっている。真理は多面体だが、多面体から外れた間違った道もある。後者の外道はつらく、苦しい。前者の真理は快く安定している。身体の感覚が真理を判別する。「そうだ、これが調子のいい時の感覚だ」。理性、感性、身体、真理。真理と間違いは「似て非なるもの」。
 試行錯誤を繰り返しながら、日常生活に真理が見え隠れする。真理という光の大海に包まれているときは、この上のない幸せを感じることだろう。


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【参考図書(入門書)】

⒈ 山本信『哲学の基礎』北樹出版
(これは比較的読みやすい文章で、哲学の全体像がつかめます。教科書的ですが入門書に最適です。)

⒉ 熊野純彦『西洋哲学史』(全2冊。「古代から中世へ」と「近代から現代へ」。)岩波新書
(この著者は今勢いがあります。本書は哲学書の原典の日本語訳も引用されていて、その本文はこの引用文と遜色のない文体です。なので、こちらは歯応えがあると思います。「近代から現代へ」だけでもいいかもしれません。)

*哲学事典
『岩波 哲学・思想事典』岩波書店
(哲学を趣味とする人から、その研究者まで。哲学の概念史を押さえることができます。こればかりやると氣が狂うので、自分は『大辞林』と合わせて読んでいます。大抵の大学図書館にあります。)

2016年11月18日

廣松哲学の主要論文に触れて

(『廣松渉哲学論集』熊野純彦編、平凡社ライブラリー、2009年)

 廣松渉は大森荘蔵と並んで戦後日本の二大哲学者。
 本書は廣松哲学の入門用として熊野純彦が編んだ。廣松の主要論文が6篇載っている。彼はマルクス主義者だったが、これらが書かれた頃になると廣松哲学と呼べるほどの独自の哲学を論じている。量子力学や相対性理論もその哲学に取り入れている。だが、数式は少ない。それでも物理の素養もあることをうかがわせる。ちなみに、彼の文体は難しい漢字の訓読みが結構出てくる。これで読み手に負荷をかける。それ以上に内容が抽象化されている。一読しただけでは理解できない。もちろん、理解できる部分はある。だが、その論文全体の真意を理解するには並大抵のことではない。ただ、本書を読んでいて、その明晰な思考の流れを泳ぐ心地良さをときに感じた。これは名のあるどの哲学者にも言えることなのかもしれない。
 ある論文では、まれに「!」を使い熱いところを見せている部分もあった。まだ若い頃にそれが書かれたのかもしれない。また、ある論考では大森荘蔵が出てきたこともあった。攻撃的な批判ではなく、敬意を込めて、彼と自分の考えは違うことを語っていた。同時代を生きた彼らはきっと互いを意識していたのだろう。
 文中、たびたびドイツ語が出てきた。哲学者にはフランス語やドイツ語が使える人が多い。彼はドイツ語が使えたようだ。廣松が影響を受けたマルクスがドイツ人のためだと思われる。

 本書は廣松の論文がそのまま掲載されている。だから、廣松の思考を身を持って感じることができる。廣松と直に向き合うことができる。彼の思想を理解するのは一筋縄ではいかなくても、彼の生の声を感じることができる。その人となりも少しは感じることができるかもしれない。その論考に苦しみ、ときに睡魔が襲い、そして、夢中で読める幸せな時間を過ごすことができる。それが一次文献に当たる醍醐味だと思う。

2016年9月12日

心の哲学の始まり

(アリストテレス『心とは何か』桑子敏雄訳、講談社学術文庫、1999年)

アリストテレス(紀元前384ー322年)は古代ギリシアの哲学者。心を哲学的に論じた史上初めての書物。近代の心理学とは趣きが違う。実験を示した考察ではない。本書はこれ以前の学説を総合的に検証し、批判し、独自の考えを繰り広げる。

心は、すべての生物が生きていると言われるとき、その原因とされるものである。そのような原因としては、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力がある。本書ではこれらが生物の身体との関係で把握される。原因を求めるアリストテレスの特徴が反映されている。人間だけでなく、彼は生物全般を視野に入れている。

訳者は本書を『心とは何か』と訳しているが、これは独自の訳で、一般には『霊魂論』や『魂について』などと訳されている。ギリシア語の「プシューケー(psyche)」を訳者が「魂」ではなく、「心」と訳したのにはわけがある。魂には、肉体から独立したものという意味がある。しかし、アリストテレスのこの議論では、プシューケーが身体から独立して存在するということを前提にしておらず、これは身体から独立かどうかという問いを立ててもいない。アリストテレスは、プシューケーが身体から独立した存在であることを否定している。そのため、訳者はプシューケーを魂ではなく、心と訳した。他にも、「終局態(エンテレケイア)」、「実現態(エネルゲイア)」、「可能態(デュナミス)」とアリストテレスの重要な用語にも独自の訳を施している。

分かりやすく訳していても難しかった。ただでさえ哲学自体が簡単に理解できるものではないのに、ましてここで扱うテーマは心。はるか昔から現代に至るまで謎の多いこの心。誰にでもあって一番身近な心でありながら、一番分からないものかもしれない。その心を正面から向き合ったアリストテレス。彼は生物学者の側面を持つので、フィールドワークを重視し、そこから得た考えが、心と身体は元々一つであること、そして「心は身体を動かす」(38頁)という主張に至った。それは生物学者としての豊富な観察などの体験から得た考え。

そして、最終的な結論は、触覚が生きていく上で一番欠かせないものであり、その他の感覚はより良く生きるためにあるものと説く。

2016年8月14日

日本で初めての哲学者

(西田幾多郎『(旧版)西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定』岩波書店 1965年)

西田幾多郎独自の抽象化がされていて難しかった。
本書はノエシス/ノエマがよく出てきた。自分は、このフッサールの対概念は意識の志向作用として扱われていて、ノエシスはその要素、ノエマはその意味であり、西田はその志向作用の次元を超えて、それらを使用している、と『岩波 哲学・思想事典』から受け止めた。
西田はこの執筆当時(昭和7年、1932年)からフッサールの現象学に注目し、この対概念をそしゃくし、自分のものとして使いこなしているのは、先見の明があると同時に、それを吸収した上で独自の解釈で使っている。その解釈の意味は一読しただけでは捉えることができなかった。

西田の書き方の特徴の一つとして、生と死、ノエシスとノエマなど、対称で際立たせている書き方がよく見られた。
彼の時間論も出てくる。例えば、「時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生れるといってよい。非連続の連続として時というものが考えられるのである」(342頁)。このくだりは面白く読んだ。ここから、「いつも今が新しい」という一期一会、この氣づきを得た。

最後に、西田の研究者の方から教わった彼の重要な書を記す。

1.『善の研究』(処女作。初期哲学。)
2.『働くものから見るものへ』(特に論文「場所」。西田固有の場所の考えの確立。中期哲学の開始。)
3.『無の自覚的限定』(後期哲学で重要になる考えが初めて展開される。)
4.『哲学の根本問題 続編』(世界から見るという立場が確立される。後期哲学の開始。)

2015年9月23日

井筒の禅の哲学 (井筒俊彦『禅仏教の哲学に向けて』)

井筒の英文著作の初邦訳。井筒は禅の哲学化を試みた。
本書で禅の悟りも論じる。それを三段階に分ける。
まず、日常生活の主客分節世界。つまり、私とあなたは違うという普段の生活。次に、自己と自然との一体化の無分節世界。これは自分と自然との境がなくなる世界。一般にこの境地だけが悟りだと思われているだろう。第三に、無分節体験から日常世界への帰還。この帰ってきたところまでで初めて悟りになると言う。

その禅仏教の名高い文献に『碧巌録』(へきがんろく)がある。碧い巌の記録。11世紀の宋代。編者は圜悟(えんご)。1125年編纂。『無門関』に並ぶ書。
文献で禅を知るには『碧巌録』は外せないと思った。禅は言葉よりも体得だと思う。だが、禅僧ではない自分にとって、禅を知るにはこの書が必要だろう。そう、井筒のこの著作から受け取った。
井筒の「禅の哲学」は自分には分からない所が多々あるが、分かりたいという氣持ちにさせてくれる。もしかしたら、これでいくばくかでも何かつかめるのではないかと思わせてくれる。井筒哲学にはそんな魅力がある。井筒哲学は東洋思想を魅力的に示してくれる。

井筒が日本語で書いた禅についての論考がすでにある。井筒が論文を日本語ばかりで書くようになったのは、ある程度の年齢を経てからになる。そのため、若い頃は外国語の論文が多かったようだ。日本では彼の著書は日本語で書かれたものが先に出版された。本書はその禅の論文と内容が重なる部分もあるが、大方はその日本語論文の以前に、英語で書かれた。そのため、本人がまだ未熟な論考だと思った節もあるらしい。それを加味しても、本書は井筒の「禅の哲学」としてまとまった著書になっている。井筒の禅の見方の概要をこの書で知ることができる。


(井筒俊彦『禅仏教の哲学に向けて』野平宗弘訳、ぷねうま舎)

2015年7月29日

哲学とは何か

「あなたにとって生きるとは何ですか」

 こう問われて即答できる人はどれくらいいるだろうか。おそらくためらう人が多いのではないだろうか。

 この「何ですか」、「What」と問うことが哲学である。人間とは何か、など。哲学は予備知識はいらないかもしれない。「人間とは何か」だから。それに対して、科学は「How to」、「いかに」と問うこと。つまり、分析。専門になるほど細かく分ける。だから、人間を総合的なものとして、人間とは何かと問うのが哲学。

 哲学を英語で「philosophy」という。「philo」は愛、「sophy」は知(知恵)。これはギリシア語からきている。ちなみに、ヨーロッパの言葉はほとんどがギリシア語かラテン語が語源になっている。とにかく、知恵を愛するというように、学問に対する知的好奇心を哲学という。それは物の道理についての学問とも言える。

 哲学は進歩しない。答えは無限にあるため。一方、科学は進歩する。基礎から応用に発展するように。だから、最先端の科学はあっても、最先端の哲学はない。哲学には時代による優劣がないため。

 哲学の始まりは「驚き」。すごいと尊敬し知恵を愛す。古代の西洋哲学はそうだった。宇宙や自然に深い愛着があった。これは一時的な興味本位とは違う。この尊敬は愛着を含めた驚き。17世紀の近代の哲学は「懐疑」。それはデカルトから始まる。「我思う、ゆえに我あり」。疑いきれない自分の発見。これは古代から続いてきたアリストテレス哲学の否定であり、古代のプラトン哲学の復活である。つまり、アリストテレス哲学の生物学よりも、プラトン哲学の物理学や数学に重きを置くことになる。この近代の懐疑から、現在に至る科学が生まれた。科学は疑いの精神。だから、権力などに支配されてはいけない。

 「What」と問うことで、人間が生きる道しるべになると思う。

 

補記

 哲学に興味のある人へ。

 山本信『哲学の基礎』北樹出版

 著者は哲学の理解の深さに定評がある。哲学とは何かから始まって、その主要な問題群を個別に説明している。だから、これで哲学の全体像が分かる。書名に「基礎」とあるように、哲学に分け入って困ったら、この本に帰ることができる。

2015年7月22日

嘘は悪か

嘘をつくことは悪いことだろうか。

大抵の人は悪いと思うだろう。嘘ばかりついていると、誰からも信用されなくなるからだ。それでは、あなたは嘘をついたことが一度もないのか。これも大抵の人は嘘をついたことがあるだろう。

哲学者・サルトル(1905-1980)はフランス人の女子高生を相手にこんな統計を取った。

①「あなたは嘘をついたことがありますか?」

―「よく嘘をつく」 50%

―「とてもよく嘘をつく」 20%

―「ときどき嘘をつく」 20%

―「嘘をついたことがない」 10%

②「嘘は非難されるべきですか?」

―「はい」 95%

―「いいえ」 5%

①の「嘘をついたことがない」と言う人は本当だろうか。にわかには信じがたい。つまり、大嘘つきと思われる。ごく一部の人だけが嘘をついたことがないのかもしれない。とすると、①のどの回答も約100%の人達が嘘をついたことがあることになる。

その一方で、②の質問は大半の人が嘘は非難されるべき、嘘は悪だと答えている。

この統計から、ほとんどの人達は嘘をつくのに、嘘は悪だと思っている。

では、嘘にはどういったものがあるだろうか。ここでは良い嘘と悪い嘘の二つに分けて考える。

前者の良い嘘とは、いわゆる「嘘も方便」のこと。これは時と場合により許される。

例えば、命に関わるようなこと。一昔前の日本の医療現場では、余命数ヶ月の重病患者本人には、医者は病名を告げず、その家族にだけそれを伝えた。このような嘘を条件つきの嘘と呼ぶ。この条件つきの嘘は、常識がある。

次に後者の悪い嘘について。哲学者・カント(1724-1804)は、嘘は絶対的悪と言う。前者の条件つきの嘘に対して、こちらは無条件的に否定する。嘘は絶対だめ、と。これは一見、非常識に思える。カントはただの堅物なのだろうか。そのせいか、当時のカントは非難されたり、からかわれたりもした。しかし、よく考えてみると、「嘘は絶対的悪」という大前提があるからこそ、嘘は良いか、悪いか、日常的に葛藤し、選択できる。嘘の歯止めにもなる。もし、嘘が絶対的善だったら、誰もが平氣で嘘をつく。社会が成り立たなくなってしまう。

このように、哲学はとても身近な日常に潜んでいる。

2013年6月 1日

詩的な哲学 (ニーチェ『悲劇の誕生』秋山英夫訳)

ニーチェは詩人か、哲学者か。

これはニーチェの処女作です。この書名にはもっと詳しい題名があります。『音楽の精髄からの悲劇の誕生』です。「悲劇は音楽の本質から生まれた」という意味です。ギリシア神話の悲劇を中心に語られています。題名にある音楽とは、演劇の悲劇と共に演奏された音楽と、ワーグナーのオペラのことです。なぜワーグナーが特筆されたかというと、ニーチェがこの処女作を世に送り出すにあたり、この本でワーグナーを応援するよう、ワーグナー夫妻に頼まれていたためです。駆け出しの著者にとって本を出すということは、それだけ大変なことのようです。しかも、このことから当時ニーチェは無名の書き手で、ワーグナーはすでに社会的地位を築いていたことをうかがわせます。出版されたのは1872年(明治5年)のドイツ、ニーチェ28歳の時でした。

ニーチェはこの本で自分の性格をさらけ出しています。多少攻撃的な面が見えます。この著作は論文というよりも、詩人の感性で書かれた特徴を持っています。支離滅裂なのに大きなエネルギーを持っていると言う人がいます。冒頭の「自己批評の試み」が特にそんな熱き詩人を思わせます。

この本が出た当時、ずいぶん酷評されました。ニーチェが生きている間は十分に評価されることはありませんでした。この本だけでなく、彼の思想全般に関しても。彼の死後、その著作と思想が光を放ちます。哲学だけでなく、文学や芸術などの分野で大きな影響を与えています。この『悲劇の誕生』はそんな彼の初期の代表作の一つとなりました。

ニーチェの思想は実存主義と呼ばれています。彼はその思想の先駆けの一人です。実存主義とは、科学技術の発達で社会に機械的で無氣力な人間が生まれたことから、人間らしさ、自分らしさを取り戻すことです。『悲劇の誕生』はその点、ギリシア悲劇を通してニーチェが自分をさらけ出しているので、自分らしさを表現した書、と言えるかもしれません。それにしても、自分の性格を公にさらすのは、勇氣がいることだと思います。それを攻撃されて自分が傷つくこともいとわないことになるからです。もしかしたら、黙っているよりも言わずにはいられない性分なのかもしれません。

ニーチェの有名な言葉に「神は死んだ」という言葉があります。これは彼の後期の代表作の一つ、『ツァラトゥストラはこう言った』という書物の中に出てきます。この言葉はキリスト教を中心とするヨーロッパの伝統的価値観がもはや生命力を失い、人間に腐った生活や自分をだますことをもたらしているという思想を要約した言葉です。この象徴的で攻撃的な言葉にあるように、ニーチェの人生は戦いの世界の中で生きてきたように思います。

彼は精力的で孤独な文筆活動を続けました。その思索が深まるにつれ、彼の孤独はいっそう深刻になり、親しい友人たちも離れていったようです。ついに45歳のとき、発狂して痴呆状態になり、妹と母親の献身的な看護を受けることになりました。発狂した10年後にドイツの路上に倒れ、その悲劇的生涯を終えています。彼の人生は悲しかったのですが、ニーチェの著作とその思想は、彼の死後輝きにあふれます。後世の多国の人々に大きな影響を与えました。その影響力は大変なものがありますが、彼の存命中には早すぎた思想だったのでしょう。せめて、彼が生きている意識があるうちに、いくばくかでもその業績の成果が報われていれば、また違っていたのでしょう。

時代の半歩先、あるいは一歩先を行くのがいい、という話を聞いたことがあります。時代との兼ね合いでその人の人生の幸福感が変わってくる面もあるのでしょう。そして、最期に自分が納得して死ねるかどうかです。

2013年5月11日

りゅうめいさん (吉本隆明『共同幻想論』)

これは吉本さんの代表作の一つです。この本には三つのキーワードがあります。まず、国家、法、宗教を指す共同幻想。次に、家族、男女の性関係を指す対幻想。そして、芸術、文学など個人を指す自己幻想。この三つの造語を柱に論を展開していきます。この本を読む前に惹句で「国家とは何か」とあるのを見て、始め、政治くさい話かと構えていました。読んでみたらそうではありませんでした。国家、家族、土俗宗教、民話、日本の古代神話などを論じています。また、「共同幻想」などの彼独自の造語があります。自分だけの造語を使う人の中には、その単語があるだけで嫌味に聞こえ、それだけでもうその本を読みたくない、という人もいます。ですが、吉本さんの造語の使い方に嫌味がなく、それらの造語もすんなりと入りました。ただ、それらの言葉の定義がされていないようなので、なかなか腑に落ちないまま読み続けました。なので、いまだにこの三つの造語の核心は謎のままです。自分にとって。

この本は引用もよくされています。前半は柳田国男の『遠野物語』を中心に使われています。後半は『古事記』を中心に使われています。

吉本さんの著作を読んだのはこの本が初めてでした。読み終えて、率直に考えを述べていますが、造語の使い方と同様、嫌味のない人だなと思いました。これなら彼の他の本も読んでみたいと思いました。

吉本隆明さんは1924年に生まれ、2012年に亡くなりました。87歳でした。工業大学を卒業後、文人としては、詩人から始まりました。思想家になったのは後のことです。この『共同幻想論』は1968年に出版されました。時に彼は44歳でした。この本の前半は雑誌に連載されたもので、後半は書き下ろしです。この角川文庫版は彼によって分かりやすく改訂されました。かなり朱を入れたそうです。それでも、自分にとって分かりやすかったとはとても言えません。ですが吉本さんの著作には、分からないけど分かりたい、という魅力があります。吉本さんに限らず、哲学や思想の良書は、自分にとっては、分からないけど分かりたい、と思わせてくれるかどうかにかかっています。そんな感覚で読んでいます。なので、『共同幻想論』は、いつかまた挑戦したいです。

以前、哲学の先生の公開講座を受けたことがあります。哲学には答えはない、とよく言われます。その先生から哲学とは答えを探すプロセスだと教わりました。一方、思想はできあがったものだそうです。すると、それぞれの要は哲学はプロセスで、思想はできあがった作品と言えそうです。プロセスと結果の違いと言ってもいいでしょう。ならば、吉本さんは思想家なので、一冊書き上げるたびに結果を示してきたことになります。しかも彼はその道では人氣があり、多くの読者がいたようなので、思想家として大成しました。また彼は始めは詩人だったので、詩と思想は同じ道の親戚と言えるのかもしれません。

彼は本書を書いているときは苦しんだそうです。生みの苦しみを経て、これは代表作と呼ばれるに至りました。

2013年4月26日

構造主義の祖 (ソシュール『一般言語学講義』影浦峡・田中久美子訳)

ソシュールの言語学の講義録です。ソシュールはスイスの言語学者です。1857年に生まれ、1913年に亡くなりました。ソシュールの思想は彼の講義に出席した学生のノートで知られてきました。中でも、バイイとセシュエが編集し出版された『一般言語学講義』は、近代言語学の確立に大きく貢献し、近代言語学の祖と言われています。ですが近年、この講義録はバイイとセシュエがかなり大胆に編集したので、ソシュールの考えの流れを忠実に反映していないことが問題になっています。そこで本書が翻訳したコンスタンタンのノートは、ソシュールの思想を最もよくまとめて表現しているものとして評価の高いものです。だから、帯に「決定版の誕生」と銘打っています。

ソシュールの思想は後に構造主義と呼ばれます。彼は構造主義を始めた人の一人です。これは実存主義流行のあとに出てきた現代の思想です。思想にも流行り廃りがあるのですね。ちなみに、今の日本ではマルクス主義が再び流行ってきているようです。とにかく、構造主義は、ソシュールなどの影響で、現象を記号の体系として捉え、個別的・歴史的な記述よりも、規則や関係などの構造分析を重視します。言語学や人類学のほか、心理学、精神医学、数学などの分野に広く展開されます。そんな構造主義に関わるところは本書では主に第Ⅱ部で語られています。いま語られている、と言いましたが、この本の訳は話し言葉の「です・ます調」で書かれています。そのため、講義を受けているような臨場感があります。この本の解説にはソシュール入門に最適とあります。確かに読みやすかったです。自分としては読んでいて氣づきや発見がいろいろありました。おかげで楽しく読むことができました。例えばこんな記述があります。「言語はシステムです。どんなシステムでも、全体を考える必要があります。変化はシステム全体に起きるわけではなく、ある部分に起きます。その変化はシステムに影響を及ぼします。なぜなら、相互関係があるからです」。この部分は面白く読みました。これは言語だけでなく、人間関係の個人と集団の間柄にも言えると思いました。

この本の頁数は少ないですが、氣づきをたくさんもらいました。言葉に興味のある人は一度、目を通してみると良いかもしれません。氣づきにちなんで、ある人は発見と理解についてこんなことを言っていました。「人間はどんな状況でも幸せを見出せる。特に知的な喜びは普遍的だ。生活に発見と理解の喜びを見出そう。それが成功の秘訣でもある」。本書は言葉に興味のある人にとって、そんな知的な喜びにあふれていると思います。もちろん、人によって相性はあると思いますが。少なくとも自分にとっては、知的な喜びの多かった本でした。いつか、また読み直したい本です。

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