思い

2018年3月28日

愛について

 愛とは元氣づけることだと思う。自他共に対して。例えば、恋人が風邪を引いたとする。そのとき自分の愛の力で抱きしめても風邪は治らない。やはり風邪薬で治す。ただ、治るまでに看病して身の回りの世話をし、元氣づけることはできる。それが愛と呼ばれるものではないか。困難に直面したときにその人の真価が問われる。そのときにその人の愛を確認することができる。

 一方で、自愛というものもある。自分をいたわる。自己管理とも言う。まず、自分が自分のことを好きにならなければ、誰が自分を好きになってくれるというのか。自分のここが嫌いと思うこともあるだろう。だが、そこも含めて自分を認めるしかない。それが生きるということだと思う。そのときの自分のここが嫌だと分かっているのなら、改善の余地はある。一歩一歩修正を加えながら、こうありたい、というあるべき自分に近づければいいのだから。自分が変われば、出会う人も変わる。そう、あきらめないことだ。倒れてもいい、倒れるたびに立ち上がればいいのだから。まずは、自分から変わることだ。いくら成長を願って努力しても、変わらないところもあるだろう。変われないからいけないとは限らない。そんなときは、あるがままの自分を受け入れるといい。愛とは認めることとも言えるかもしれない。

 こんなことを言っている人がいる。

「運命を引き受け、人を愛しなさい。

それが、自分を大切にすることです。」

(佐々木常夫『働く君に贈る25の言葉』)

 人のためになることをすれば、それが自分に返ってくる。

 そうして良い循環が生まれる。現状から逃げずにそれを認め、人を愛することが自分のためになる。逆境は自分を強くする。つらいときこそ、人のために行う。そうするといつの間にか逆境を乗り越えている。いつも、今、ここから、始まる。

 愛には喜怒哀楽の総てが含まれる。良いことだけではない。だから様々な愛の形がある。文学でも音楽でも多くの愛が語られる。だが、愛というからには根本には好意がなければならないのではないか。元々好きだから、腹も立つし、悲しくもなる。愛憎相半ばするという。それだけ、愛となると思い入れも強い。だから宗教にも表れる。それは生き方に関わる。

 愛の基本には人間への好意があり、だから元氣づけたくなる。人にも、自分にも。

2015年6月24日

人間として

  世の中、完璧な人間なんていない。みんな一長一短がある。どんなに素晴らしい人間にも欠点はあるし、どんなにひどい人間にもいい所の一つや二つはある。その長短の程度の違いで十人十色になるのではないか。
  その人間が誰にどの面を見せるかによって変わってくる。意識してもしなくても。つまり、相手によってその人間のどの面が出てくるかが違ってくる。同じコインの表と裏に相当するだろう。そこには常に他者の目がある。だから、人間関係があってこそ。人は基本的には一人では生きていけない。人間を人の間と書くように。人は一人孤独に生きていくには向いていないと思う。誰かと関わることで、本来の人間らしさが出てくるはず。また、そうすることで、その人間の可能性も開けてくる。それが社会の良い所だと思う。
  そのためには言語が必要。人間にとって。言語は周りの人間から教わる。そうして自分の感情を、考えを、相手に伝えることができるようになる。何度もその言語を使い続けることで、ある対象の細やかなことまで他人に伝えることができるようになる。それは言語を使い続けるからこそ。それを全く使わなくなると、その言語を忘れていく。自分の内面を表現できなくなる。そこまでいくと、社会生活が営めなくなる。それは言語の公共性がなくなること。
  言語の公共性とは、その言語の文法という規則に従うから、その言語だけで自分の内面やある対象の説明を他人に伝えることができること。この公共性があるから、社会が成り立つ。その前提としては、ある社会に広く認められた規則があること。その規則が真実かどうかは別として、規則が明確に定められることによって、社会は運営されていく。これが公共性。だから人間として生活できる。自分の感情を社会に適応できる。自分の感情が他人と共有できたり、それが他人と対立したりする。
  では、自分にしか分からない感情はあるのか。
  ある。
  人はよく妄想をする。これなどは自分にしか分からない感情の一つだろう。また、個人の日記でも然り。感情を吐露した自分にしか分からない文章の場合。単語の一つ一つは他人にも理解ができても、文章全体としては意味不明の言葉。これも自分にしか分からない感情の表れと言える。
  そんな自分にしか分からない感情を誰もが持っているから、十人十色の社会が生まれる。

2011年10月20日

つらさを実りへ

「一体殉教というものは、その当人の受ける苦しみと屈辱が大きければ大きいほど、それだけ人の心を深く動かす傾向があります」

井筒俊彦『意味の深みへ』岩波書店、186頁

受難に遭っても腐らず、当たらず、自分の糧にする。それは向上心。志があれば、道を踏み外すことはない。それでいて素直な自分を忘れない。
そうありたい。
どんなに時代が変わり道具が変わっても、人には心がある。その心を見据えたい。

2011年8月 5日

いのち〜この来し方と行く末〜

生きる。
それは絶妙なバランス感覚でできているように思います。時代と共に道具は変わっても、人の心は普遍で不思議。一人一人の人生も。そういう芯のある不確かさ。今、生きている実感と未来の未知。それでも誰にでも必ず訪れる死。それだけは決まっています。

逆に一人の人間が生まれることも不思議です。その前は精子と卵子の結合です。更にその前は、と遡っていくと、「何もないが何かあった状態」に行き着くのではないでしょうか。この生まれることと同様に、死も「何もないが何かあった状態」に還るのかもしれません。この状態が自然の源ではないでしょうか。

極微の世界の物理法則に不確定性原理があります。この原理はドイツの理論物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルクが提唱しました。この原理によると、素粒子の運動では、位置を正確に決めようとするほど、その速度が不確かになります。その位置と速度を入れ替えても同じことが言えます。これは位置と速度だけの性質ではなく、時間の長さとエネルギーの値についても同じようなことが起きるそうです。無の空間であっても、一瞬の短い時間であればエネルギーの値は不確かになり、様々な値を取りうると言います。このように一瞬だけ許されたエネルギーを利用して素粒子が生成され、即座に消滅しているとの事です。
この素粒子の生成・消滅を一人の人間の生死に置き換え、その来し方と行く末が「何もないが何かあった状態」だと思いました。

不思議なバランス感覚から生まれ、不思議なバランス感覚に還る。

2010年9月16日

時の波を泳ぐ

つらいときは時間が長く感じる。楽しいときは時間が経つのが早い。そういう意味では感覚と時間は密接に関わっている。時間は目に見えない。だが日は昇り、また沈む。そして朝を迎える。やはり時は刻々と進んでいる。それを感じるのは心。氣持ちの持ちようで時の感覚が違う。

時間とは何だろうか。これは総ての人達に平等に与えられている。時を活かすも無為に過ごすも自分次第。
時代の波に乗るという言い方がある。つまり、時は波。時代という大きな間隔もあれば一日の時の波もある。それは生活リズム。
仕事をしているときは時の波にしっかりと乗らなければならない。そうして仕事に集中し心を積極的に使わなければ、仕事がつらくなる。仕事中の時の波に上手く乗れば、時間が経つのが早い。充実感がある。
その一方で家で休んでいるときの時の波は穏やかだ。酒と音楽に酔い、ゆったりと時が過ぎゆく。

緩急をつけて時の波を上手く泳ぎたい。

2010年7月23日

歌の氣力

行きつけのジャズ喫茶にいたときのこと。
あるアルバムを聞いて感動のあまりしばし椅子から立てなかった。アン・バートン『バラード&バートン』である。その時の心境によってそのアルバムを聞いても軽く聞き流してしまうこともある。だがその時は違った。このアルバムに聞き入っていた。余計な思念が入らずただひたすらに。その時間、空間、感覚。彼女の歌の世界に浸った。魅了された。言いようのない幸福感。自分は彼女の氣に満たされた。氣をこう意味づける人がいる。

 総て物を計るには、1を以て始めとす。これを無限に縮小しても、遂には零(ぜろ)とはならない。零より1は生じ得ないからである。
 この無限に小なるものの無限の集合体を総称して、氣という。

氣をこう定義するのは心身統一合氣道の創始者、藤平(とうへい)光一氏である。
限りなく小さいものが限りなく在る氣。無ではなく実在する氣。

そんな氣を歌で捉えたらどうなるか。
氣力に満ちた歌は聞き手の心に響く。氣の抜けた歌は聞き手の心に響かない。氣の交流や共鳴と、淀んだ氣や独りよがり。
氣力の漲った歌声は聞き手に響く。かといって力任せで力んでいては聞き手に響かない。

つまり、力まず、弛まず、生き生きと。
これが充実した氣力、心が通じる氣ではないだろうか。

2010年6月11日

芸談への好奇心と自分

自分は分野を問わず芸談を知ることが好きだ。

あるプロ野球選手はその絶頂期をこう語っていた。その頃は頻繁にホームランを打っていた。打席に立ち、投手が投げる。そのとき、ボールが止まって見えるという。この芸談を知ったのは何年も前だが今でもこの話は覚えている。この芸談にはボールを打つときの集中力の高さが現れている。この高さは神経過敏とは違う。その過敏さは心と体のバランスが悪い。これでは良い結果が伴わないだろう。そうではなく、先ほどの高い集中力は、氣力と体力の充実が、心と体の調和が、前提となっている。体がしっかりと作られ、精神面も生き生きとしている。活力が漲っている。空回りではなく、地に足をつけた充実感。その打者はその打席のいざという場面でも氣力を、充実感を、保っていた。だから、持ち前の才能と努力を生かすことができた。「ボールが止まって見える」のである。その結果のホームランである。

ところで、一角の人物とのインタビューを知ることがある。語り手の底が深いのに、上っ面で終始する下らないインタビューもあれば、語り手の深みを感じさせる面白いインタビューもある。これは聞き手の内面に関わっている。聞き手も底の深い人物でなければ、面白い話、芸談は引き出せない。

翻って自分はどうか。友人との会話。職場での会話。そのときどきで出会った人達との会話。
相手との相性や信頼関係によっても違うが、相手の反応は自分を映す鏡だと思っている。日々試行錯誤である。そんな中で好奇心を錆びつかせず、内面を深めていきたい。
類は友を呼ぶというように。

2010年4月 7日

最上の勝

争わずして勝つ。

これは仁王像の顔のように争って勝つのではなく、仏様の顔のように穏やかな表情を指すのではないか。冒頭の勝ち方は孫子の兵法で名高い孫武の理想である。この最上の勝は命を大切にする考えがあると思う。

その点自分は未熟だ。以前自分の狂氣のことをこう指摘した極真空手四級の人がいた。嘉信君は目で殺すのかい。これでは自分より強い者に太刀打ちできない。そこで強い者とも渡り合えるのが仏の顔である。相手に敵意を抱かせないあの表情。相手がどんな強者でもこの表情なら通用する。臆することなく向き合える。強者を導くことができる。そのためには人を相手にするのではなく、天地自然を相手とする生き方が必要と説く人がいる。心身統一合氣道宗主、藤平(とうへい)光一氏である。人を相手とする相対的世界ではなく、大自然を相手とする絶対的世界。その自然に従えば良いという。

その具体的な方法の一つに「氣の呼吸法」がある。自分はこの呼吸法を稽古している。苛ついたとき、落ち込んだとき。そういった心の争いがあるときにこれをすると、じきに穏やかな氣持ちになる。また好きなジャズを楽しく聞くことができる。

自分は「氣の呼吸法」を長年続けることで、相手にも自分にも争わずして勝つ仏の境地を目指す。その境地に到達できなくとも、近づくことはできるだろう。

「あきらめるな!」
怠け者の自分にそう言いたい。

2009年11月25日

愛の解釈

 愛とは元氣づけることだと思う。自他共に対して。

 例えば恋人がかぜをひいたとする。恋人のかぜは自分の愛で治るわけではなく、やはりかぜ薬で治す。ただ、その恋人の看病や身の回りの世話をして元氣づけることはできる。これが愛と呼ばれることではないだろうか。看病して恋人が元氣になっていく姿を目の当たりにすると自分も嬉しい。

 こんな話もある。マザー・テレサの「死を待つ人の家」の住人達は人によって異なる宗教を信じていた。その住人が亡くなるとマザー・テレサは、亡くなった人が信じた宗教の弔い方をした。亡くなる人の希望に合わせて弔い方を変えていた。一人一人が安らかに旅立っていけるように。他人へのこのマザー・テレサの愛は死にゆく人を元氣づける。元氣に死ねる。

 このように自分は、愛とは元氣づけることだと思っている。

2009年10月31日

動の究極にある静

静と動。

回っているこまがある。一見したところ静止している。だが、このこまは高速で動き続けている。これが静止である。停止とは違う。動の究極は静である。

厳かで静かなたたずまい。あるいはいつも微笑んで隙のない姿。その内には大きな活力がある。その状態であれば、何か異変があったときも素早く対応できる。心が停止していれば、感覚は鈍る。危険を感じることができずにけがをする。鈍った停止と比べ、心の静止には充実感がある。氣力がみなぎっている。

姿勢でいえば、停止は力が抜けていること。つまり虚脱状態。静止は力を抜いていること。つまりリラックス。この違いは大きい。

人を和ませる静かな笑み。その姿勢、その感覚。その場の空氣。静にはそんな世界もあると思う。

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