歴史

2011年5月 9日

写楽

東洲斎写楽。江戸中期の浮世絵師。活動期間は1794~95年の10か月足らず。その間140種ほどの役者絵と相撲絵を残す。画風の変遷は三つの期間に分かれる。今日よく知られている大首絵はデビュー時の第一期に描かれた。第二期は全身像。第三期はそれに背景を加えている。第一期の大首絵がこの三つの期間のうちで最も迫力がある。第二期、第三期と下るにつれてありきたりの画風になっていき、あまり魅力を感じない。それだけ第一期の画風は奇抜で面白い。今の音楽でもそうだ。デビューアルバムにして最高傑作という人がいる。写楽もその傾向にある。第一期の作品群は他に類を見ない斬新さがある。第一期は一度に二十数点を発表した。この二十数枚の大首絵を描いているときの写楽は、これから世に出る意氣込みに満ち、怒濤のように描いていたのではないか。

第二期、第三期になると世に迎合して面白くない。第一期の勢いが、写楽らしさが感じられない。それだけ第一期の大首絵には、観る者に迫るものがある。時代を超えて、国をも超えて、観る者に感動を与え続けている。

その写楽とは何者か。三つの説がある。能役者説、版元の蔦屋説、当時の人氣絵師説。近年の肉筆画の発見により、昔から言われてきた能役者説が、今の研究成果では最有力となっている。名は斎藤十郎兵衛。脇役の能役者の家柄。脇役のため台詞はほとんどない。舞台では空氣のような存在。能役者は武士と同じ身分。そのため画業は御法度。絵を描く才能があったと思われる斎藤にとって、脇役の能役者では煮え切らない氣持ちがあったのだろう。また、能役者の身分のため、当時の絵師の名簿にも写楽とだけ記され、斎藤の名はなく、本名の欄は空白になっている。では、どうして版元の蔦屋を知ることができたか。当時の斎藤の住所が手がかりとなる。斎藤が住む三、四軒隣に蔦屋の知り合いがいた。その人物を通して蔦屋と知り合ったと思われる。

自分の家柄の能役者では自己表現できないうっぷん。その身分により絵は描けない。でも、描きたい。蔦屋という版元を得たときの斎藤の喜びは想像に難くない。それが第一期の作品群という形になってその氣持ちがあふれ出たのだろう。その作品群の大首絵には、芝居の物語を伝えるだけでなく、役者の人生も描いている。年相応のしわを描き、女形のあごにはたくましさを感じる。そのため写楽の大首絵は役者から批判された。だから第二期以降の写楽の作品群は、他の絵師と似たような、写楽らしくない作品へと変わってしまう。自分でもそれを感じていたのだろう。わずか10か月という期間で姿を消してしまう。

だが、第一期の大首絵は今なお現存する。当時の写楽の熱を感じることができる。

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(先日のテレビ「NHKスペシャル」より)

2010年2月28日

それでもなお、明日へ

 錦帯橋(きんたいきょう)。山口県岩国市にある。世界唯一の木造五連橋。1673年完成。吉川広嘉(きっかわひろよし)が陣頭指揮を執った。
 昨日テレビ番組「美の巨人たち」でこの橋を知った。テレビで見ただけでも美しい橋だった。四基の石垣で結んだ五つの虹の架け橋。錦川という暴れ川に橋を架ける広嘉の執念がこの美を生んだ。広嘉は錦川に対抗するため時間をかけた。まず土木と建築の専門家を育てることから始めた。その者達に全国の橋を見聞させ学ばせた。陸で試作し失敗と改良の繰り返しだった。そうして錦帯橋創建。だが、数ヵ月後の大雨による錦川の増水でこの橋が流されてしまう。それでも広嘉はすぐさま橋を架ける。その際徹底的に橋が流された原因を調べ更に改良し再び完成させる。広嘉はこの橋の完成を見届け五年後に死去。
 錦帯橋の維持費は地元民の収入に応じた錦帯米で賄った。一律ではなく収入に応じているところがいい。今は橋を渡るときに一人300円支払うことで補っている。
 この橋の建築技術は地元大工の口伝で今も生きている。設計図はない。木の癖をよんだ経験と勘が伝えられている。
 錦帯橋は地元大工の誇り。
 三百数十年前の吉川広嘉のあきらめない心、錦帯橋。今も岩国にたたずんでいる。

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2009年1月 9日

弾丸道路

 弾丸道路とは国道36号線の札幌―千歳間のことである。この名前の由来には移り変わりがある。最初はアメリカ軍が駐留していた頃、弾薬を積んで運んでいたためという軍事道路の性格からであった。後には弾丸のようにスピードが出るからという神話になった。これは道路の技術面の性格が出ている。
 第二次世界大戦後、日本の道路はこの札幌―千歳間の国道36号線からはじまったといえる。
 着工されたのは昭和27年(1952年)。この時期、同25年6月に始まった朝鮮戦争の戦局が深刻さを増していた。アメリカ軍は千歳飛行場と札幌・小樽を軍事的輸送拠点として、その道路整備を急いでいた。そんな折、浮上したのが札幌と千歳を結ぶ砂利道の全面舗装であった。この道路工事はその後の道路築造の基本となった。当時としてはどれも新しいことであった。まず、本格的な改良舗装工事を一挙に35キロメートル完成させた。次に、戦後の食糧も土木機械も満足にない時代に、着工からわずか1年後(昭和28年完成)の短期間に仕上げたこと。そして、道路築造工法が斬新で画期的だったことが挙げられる。
 この事業で陣頭指揮を執ったのが、高橋敏五郎である。高橋は日本で初めてアスファルト舗装(黒)を行った。今では「黒」が当たり前だが、当時はコンクリート舗装(白)が主流であった。
 その頃<白・黒>論争が始まっていた。コンクリート舗装がいいのか、アスファルト舗装がいいのか。<白・黒>問題について高橋には明確な意見があった。「白」というのは手間がかかる。この地では凍上対策をとらなければならない。となると、立派な基礎工事をやってその上に「白」をするのはばからしい。立派な基礎工事をやるんだから「黒」で十分だという考えが頭から離れない。高橋にはそれだけ自信があったのである。また「黒」にするためには理由があった。一つは凍上対策のため。もう一つは(軍事的な背景ではあるが)短期間に完成させるためである。
 ところが、要請した占領軍も中央の建設省も「白」を推進した。高橋の「黒」にする計画はそう簡単には決まらなかった。建設省は「黒」に猛反対した。「白」だと材料に国産品を使えたのが大きな要因である。しかし、1年間に35キロメートルの舗装は当時の技術では考えられなかった。「白」では絶対できなかった。そのため高橋は「黒」の主張を曲げなかった。それでも建設省をはじめとする中央では「白」一辺倒だった。だから「黒」だと補助金も出してくれないらしい、という噂が流れた。高橋ははじめ強引に「黒」で押し切っていた。しかし中央の顔が立たないため、一部の道路に「白」をすることにした。何事も新しいことをすると反発が起きるものである。高橋は従来の意見も取り入れることで自分の新しい試みを成し遂げたのである。従来からの「白」ばかりでやってきたことから「黒」への転換に画期的な役割を果たした。ここで採用された方法や材料のすべてがその後の道路工事の基本をなし、今なお生きている。
 このわずか一本の道が、日本の道路史における大きな礎となった。

参考図書

●道路情報館編集委員会/編『札幌・千歳間道路物語』国土交通省北海道開発局札幌開発建設部・道路情報館 2003年

●札幌市豊平区役所市民部総務企画課/編『豊平区の歴史』札幌 札幌市豊平区役所 2002年

2009年1月 2日

一職人として ~時計台と豊平館を手掛けた男~

 札幌のビルの谷間にある時計台。同じく中島公園にある豊平館。どちらも明治初期に建てられた。今ではいずれも国の重要文化財に指定されている。
 当時の日本はまだ洋風建築の設計、施工技術が確立していなかった。そうなると高給で雇われた外国人が作ったのではないかと思われるかもしれない。ところが、外国人の顧問団の中には建築の専門家はいなかった。そのような状況でこれらの建築物を作り上げたのが、安達喜幸(きこう)である。
 安達は大工の棟梁としての腕前はかなりのものがあったらしい。となると木造建築の基礎はしっかりとできている。また建築史が専門の教授によれば、安達は写真や絵を見て実際の設計図にする力を身に付けていたのではないか、とみている。基礎がよくできているので、限られた情報からでも完成に向けての具体的な方法を思い描けたのであろう。
 安達は昔ながらの職人氣質で名を残そうとはしなかった。そのため、時代とともに安達の名は埋もれていった。
 再びその名が世に出たのは昭和24年(1949年)のことである。ひ孫の橋本明代氏が通っていた札幌の小学校で作文の時間があった。そのとき祖母から「お前のひいじいさんは時計台を設計した人なんだよ」と聞かされた話を書いた。それがNHKラジオの児童向け番組に選ばれてその文が放送で流れた。するとこれに反論が寄せられた。時計台は外国人が設計したもの、日本人の手によるというのは初耳だ、というのである。時計台の設計者は久しく開拓使がアメリカから招いた外国人の一人とされていた。父親の故安達力氏は落ち込む娘を見て、北海道庁に談判に出かけた。しかし、取り合ってくれない。親子は悔しい思いをした。
 それから12年の月日が流れた。昭和36年(1961年)。故遠藤明久北海道工業大学名誉教授が意欲的な調査の末、論文で明らかにする。安達喜幸は開拓使を代表する建築家である、と。これで日の目をみることとなる。
 安達の手紙や日記は見つかっていない。この人物の人柄を知る資料はほとんど残っていない。つまり、自分の名を残さなかった。これは日本の昔からある職人らしく、自分は一人の職人でしかない、と思っていたのかもしれない。法隆寺を建てた古の職人の名が知られていないように、職人の人生観には自分の名を残す意識はないように思われる。
 そこにあるものは良い物を作るという誇りだけである。

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時計台

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豊平館

参考図書

北海道新聞社編『続 北へ・・・異色人物伝』北海道新聞社 2001年

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