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2013年1月18日

構造主義者と呼ぶな (ミシェル・フーコー『知の考古学』慎改康之 訳)

「フーコーの最重要著作 42年ぶりの新訳」

ある本の帯の惹句です。去年出た文庫です。僕はこの文庫が発売されたとき、近所の書店で偶然平積みされていたところを見つけました。この帯を見て心が躍りました。フーコーは何年も前に哲学入門の雑誌で名前しか知らなかったためです。これがフーコーの代表作だったんだ。しかも42年ぶりの新訳なんだ。知らなかった。興奮してミシェル・フーコー『知の考古学』を手に取りました。

ミシェル・フーコーは1926年にフランスで生まれ、1984年に亡くなりました。享年57歳です。若すぎる死でした。わずか43歳でフランスの最高学府の教授に就任。異例の抜擢でした。大学で教鞭をとる一方、世界各地で講義、討論、政治活動を起こした行動的哲学者でした。

歴史的観点から権力の再考察を行いました。権力のだます性質をあばき続けた一生だったと言われています。博識でもありました。『知の考古学』は、歴史を哲学という姿で論じています。この「考古学」とは彼の研究方法を意味します。かといって歴史の具体的な事件は一切出てきません。彼は歴史の連続性ではなく、それを考古学として、非連続の方法として、論じています。それでもあくまで、本書は人間を見つめています。人間の考えを見つめています。その鍵となるものは知、権力、主体化という三つの軸があります。これらの軸は本書に限らず、フーコーの研究全体に及びます。

個人的な感想としては、くどいくらい冗長と思われる説明がところどころにあります。最初はこれに抵抗を感じました。ですが、読み進むにつれ、読む速度が上がると、逆にそういった箇所がフーコーの思考の流れを泳いでいるような感覚を覚えました。一度の通読で理解できているとは、到底言えません。ですが、その感覚が心地良かったです。思考の流れを泳ぐ感覚は、彼の頭の回転の良さがそうさせるのかもしれません。頭の回転の速い人と会話をすると、自分も賢くなった氣分になれる、というところでしょうか。

フーコーは哲学と歴史学の双方に及びます。彼の1966年発表の『言葉と物』は大きな反響を呼びました。彼の出世作と言えるかもしれません。本書は1969年に発表されました。

彼はよく構造主義者と思われました。その構造主義は現代の思想の一つです。スイスの言語学者、ソシュールの言語理論の影響で、現象を記号の体系として捉え、個別的で歴史的な記述よりも、規則や関係などの構造分析を重視します。言語学や人類学のほか、心理学、精神医学、数学などへ多様に展開されました。フーコーはその構造主義者と思われることが嫌でした。この『知の考古学』でそれを否定します。

それを思うと、自分への人の評価と、自分自身の思いとはすれ違うことがあるようです。あくまで自分の思いを貫くのか、人からそう評価されたのなら、それで構わないと受け入れるのか。この点は哲学者に限らず、社会人なら誰もが経験することだと思います。

よく「哲学なんか何の役に立つの?」と言う人がいます。ある人は議論の交通整理の役に立つと答えました。僕にとっての哲学は、心が燃えるために読んでいます。論文で熱くなることは矛盾していると思うかもしれません。ですが時折、哲学や思想で考える喜びを感じることがあります。感性に響く哲学書というものもあると思います。思想の要は思いつきだ、そこから始まる、という人もいるくらいです。そんな良い氣づきや「考える熱」を追い求めていきたいです。

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